今日もアイツは俺と言葉を交わさなかった。
話したくても言葉が見つからない、そんな複雑な表情で俺の前を通り過ぎた。
「サヤカ!」
放課後の夕陽さす廊下で俺はアイツの背中に向かって声を掛けた。しかしその背中は振り返ることなく遠ざかっていった。
アイツは必ず振り返るはず─────。
内角の和
俺達は幼なじみだった。小・中とわりあい仲良く過ごし、同じ高校に進んだのは偶然と言う言葉だけで片付けるには勿体無かった。周囲はクサレ縁だの幼なじみは結ばれないだのと軽口を叩いていたが、当の俺達は全く気にせずにそれまで通りいい関係を保っていた。
幼なじみから彼氏彼女に変わったのは、高一の秋、体育祭が終わった次の週の日曜日のデートからだった。
「カッコ良かったよ」
サヤカは体育祭での奮闘をそう言って誉めてくれた。その言葉は優勝に貢献した俺に対する先輩や先生の言葉より何十倍何百倍も嬉しかった。
そして誰もいない公園での初めてのキス。
あの時の俺に順風満帆という言葉以外にどの言葉が当てはまったのだろう。
けれど様子が変わったのは一ヶ月ほど経ってドリカムの野外ライブに誘ってからだった。
アイツはドリカムのファンで一度コンサートに行きたいと常々言っていたから、電話予約しかないチケットを取るため、俺は学校をサボってようやく二枚をゲットしたのだ。
「こんなチケットでサヤカの気を引かせられると思ってたの?」
ピリピリと乾いた音をがらんとした教室に響かせながら、チケットは細かい紙吹雪に姿を変えて所々ワックスが剥げ落ちた床にひらひらと舞い降りていく。
アイツは「笑顔の行方」が大好きだった。そんなアイツの笑顔を見るためにゲットしたチケットは今目の前でただの紙切れに変わってしまった。
「アイツが─────」
俺は必死に声を振り絞った。
「アイツが俺とは行きたくない、と言ったのか?」
ユミナはフッと小馬鹿にしたように笑い、首を傾げてショートの髪の先を指でつまみながらゆっくりと言った。
「そんな事、今ここではっきりと言わないとわかんないの?」
チケットを破られた怒りよりも言いようのない虚しさが俺の全身を満たしていた。目の前のユミナは道ばたの捨てられた子犬を見るような蔑みと同情をない交ぜにしたような目で俺を見つめている。
「分からなくもないわ」
ユミナは床に切れ切れに積もった雪の残骸に視線を落として言った。
「彼女が年下の後輩に、しかも同性の私に奪われたあなたのショックは」
「ショック?」
「違う?」
捕らえようのない目の前の少女は小悪魔のようにクスリと笑う。
「可哀想に、ショックが大きくて客観的に自分を見られなくなっているわ、あなた」
「自分を見られなくなっているのはオマエの方だろ。アイツが俺から離れるはずがない」
アハハ、と顎を上げて軽く笑うとユミナはこれだから男はと言って俺の前からするりと離れ一人教室から出て行った。
俺はユミナが出て行った引き戸をしばらく眺めたあと、教室を見回した。
時間割りが貼られた壁。端が破れている黒板消し。誰かが残した黒板の落書き。
静かに窓から差し込む夕陽。
教室全体がオレンジに染まっている。
まるで時間が止まったように。
好きな数学の授業さえ頭の上を声だけが通り過ぎてゆく。
ぼんやりと窓からグランドを見ていた俺が気付いた時には教室中の視線が俺に注がれていた。
「考え事をしている最中に申し訳ないが、できれば56頁の類題3を答えてくれると有難いのだが」
冗談好きのフジカワ先生がにこやかに教壇から俺に言った。
「あ」
慌てて立ち、授業開始以来開いていない教科書を急いでめくった。
そして56頁を開いた時、見慣れぬ写真が挟んであるのに気がついた。
胸騒ぎを押さえて凝視すると、それはサヤカとユミナが抱き合ってキスをしている写真だった。背景は見覚えのあるサヤカの部屋。
「どうした?」
さすがにフジカワ先生の声色が変わった。
「すみません、教科書を間違って持ってきてました」
咄嗟に口から出たでまかせを言い俺はへたり込むようにすとんと腰を下ろした。
教室に広がるざわめきとひそひそ笑い。
「おいおい、誰が座っていいって言った。しばらく立っとけ」
教科書を机に埋め込まんばかりの力を込めて両手で押しながら俺は立った。
この手の下には俺にとって呪いの札と変わらないものが存在している。
まるで教科書の中から熱を発しているようにそれは俺の手をちくちくと刺していた。
サヤカは意識的に俺を避けているようだった。
朝の補習、教室の移動や体育の更衣、昼休み、放課後。すべての俺の行動範囲から外れるように生活しているようだった。
そしていつになく校内でユミナとすれ違う機会が増えていた。あいつは俺の行動に目を光らせているに違いない。
言葉すら交わせず顔すら見る事もままならないサヤカと、朝から俺を監視するユミナ。
そんな気が滅入る二週間を過ごして、サヤカを信じるという心にも少しずつヒビが入るのを俺は押さえられなかった。
弱いぞ!と叫ぶもう一人の自分と、そんなはずはないじゃないかと励ますもう一人の自分。どちらを信じて良いのか。逡巡しながら挫けそうになる日の朝に限ってサヤカの横顔をちらりと見ると俺の心はかき乱された。
「ねえ、ちょっと屋上に来てよ」
同じクラスのケイコに誘われて俺は放課後の屋上にいた。十一月の風はさすがに肌寒く、誰もいないようだった。
ケイコは中学が一緒で三年ではクラスも一緒だった。サバサバした体育会系で俺とは不思議にウマが合い、そしてサヤカとも仲が良く、俺達が付き合い始めた時に一番喜んでくれたのはこのケイコだった。
空はどんよりとして、どう頑張っても明るい気分にはなれそうにない灰色の切ない雲だった。
「サヤカとうまくいってないの?」
俺はフェンスにもたれかかって短くああと答えた。
「そう」
ケイコは風になびく髪を手でかき上げながら言葉を探しているようだった。
「ユミナって子のこと知ってる?」
「ああ」
「付き合ってるって噂だわ」
「そうか」
「そうかって.........」
ケイコは怒っているようだった。
「何でサヤカとユミナって子が付き合うってことになるのよ。もう!しっかりしなさいよ、アンタ彼氏なんでしょ?」
こうやって他人から「サヤカとユミナ」という組み合わせをはっきりと言葉にして聞くと、もう踏ん張りはきかずに、信じていたものが音もなく砂の山を崩すように心の中で一本の柱が消えていく。
「俺だって」
俺はケイコを引き寄せるとぎゅっと抱き締めた。
「ちょ、ちょっと」
「───俺だってわかんないよ」
風はびゅうと吹き抜ける。
俺はサヤカとは違う人を抱き締める。
なおも風は吹き抜ける。
どこか遠くで乾いた機械音がした気がした。
三日後の木曜日の昼休み。
生徒でごった返す学食でユミナは俺に近づくや、何か紙切れを俺のランチのトレーの下にすっと滑り込ませて何喰わぬ顔で去って行った。
───明日十一時にAVルームではっきりさせましょう。サヤカも来るわ。
メモにはそうあった。明日金曜日は祝日で休みだった。誰もいない学校で明日すべてが決まる。必ず俺が来ると思っているのだろう、俺の返事すら聞かなかったユミナの姿はもう無かった。
グランドで部活をしているざわめきとは裏腹に校舎内は人影がなくひっそりとしていた。
重い足取りで俺は階段を昇り三階のLL教室を兼ねたAVルームへ向かった。
十一時きっかりに防音仕様の重いドアを開けると、中は黒い暗幕カーテンが曵かれていて薄暗かった。目が慣れた頃、教壇代わりのコントロールデスクの前で女子の制服の二人が抱き合っているのが分かった。
それ以上足を進めることはできなかった。
俺と二人の間は五mちょっと。
しかしこの距離はこれ以上縮めることも無くすこともできない。
一人は背中を向け、俺の方に顔を向けているのはユミナで相手の背中に手を回している。
「来たのね」
ユミナは顔を俺の方を向けたままけだるそうに言った。
「こういう事なのよ」
「サヤカ、いいのかそれで」
俺は背中を向けている制服に静かに言った。
「おまえがはっきりと俺にそう言うなら俺は諦める」
途端にアハハハ、とユミナが笑い出した。
「まだ彼氏のつもりでいるよ、あの人」
サヤカのうなじに頬をすり寄せながら見下した目でささやくユミナ。
「私はこの学校に入った時からサヤカが好きだったのよ」
「なあ、サヤカ」
俺はユミナの言葉を遮るように、黙ったままの背中に話しかける。
「俺達、終わりか?」
「それをあなたが横から取り上げたわ。私のサヤカを」
「なあ、答えてくれよサヤカ」
「私達はこれ以上ないほど相性抜群なのよ、むさ苦しいあなたと違って」
「サヤカ!」
「ほんとにあなたって分からない人ね。サヤカはあなたではなく私を選んだの」
「黙れ!」
俺の怒鳴り声にユミナは屈するどころかクスクスと笑いながら嫌ねすぐ怒鳴ってとサヤカの耳にキスしながら言う。
「やめろ」
「悔しいの?」
俺は一歩足を進めた。
「私がサヤカにキスすると悔しいの?」
これ見よがしにサヤカのうなじにキスしながらユミナは挑むような目で俺を牽制する。
「何故サヤカが私を選んだか分かる?」
「もうお前の話は聞きたくない」
越えられないと思っていた距離を自分の足で縮め、俺はまた一歩サヤカに近づく。
「サヤカ以外の女の子と抱き合っていたくせに」
「何?」
たった二歩。そこまでだった。ユミナの一言で俺の足は凍りついた。
「何のことだ」
またクスクスと笑いながらサヤカの耳許にいやあね、しらばっくれてるわこの期に及んで、と聞こえよがしにユミナは言う。
一瞬の迷い。
脳裏にケイコの風になびく髪が浮かぶ。
しかし俺ははっきりと口に出して言った。自分自身をも納得させるために。
「そんなことはない。デタラメを言うな」
待ってましたと言わんばかりに無言でユミナは左手でコントロールデスクのスイッチをパチンと入れた。途端に教室に六台ある、天井からぶら下げられたモニターにブウンと光が入り、そして俺とケイコが抱き合っている姿が全てのモニターに映し出された。四日前の屋上の光景が今そこに動かぬ証拠として晒されていた。
「悪いけど激写させてもらったわ」
初めからまったく揺るぎない勝者の表情のユミナは、わざとらしくはあ、とため息をついた。
「こんな事しておいて、俺達とか、終わったのかとか、よく言えるわよね」
フフ、と含み笑いを残してユミナはサヤカに言ってあげたら?と囁いた。
少しの間があいた後、サヤカは口を開いた。
「私」
久しぶりに聞くサヤカの声。
まごう事なきサヤカの声。
「───さよならを待ってる」
一言だった。
たった一言で俺は打ちのめされた。
欲してやまなかったサヤカの声は俺にしみ入ると同時に内側から俺を蝕んでいく。
「と、言うことなのよ」
俺は立つのもやっとだった。
「私達のこと、勿論黙っててくれるわよね?これがあるんだもの」
ユミナは天井を指差した。
「ケイコさんも困るでしょうね、こんなのバラ撒かれたら」
俺は最後の力を振り絞ってユミナを睨みつけた。
「まだ分かってないようね」
最後の最後までユミナは俺を叩きのめすつもりらしかった。
「もしかしてまだ三角関係なんて思ってるんじゃないでしょう?」
俺の眼前でユミナはサヤカの頭をかき抱き、サヤカの唇に自らの唇を重ねて激しいキスをした。
「おい、やめろっ」
叫んだ瞬間、二人はくるりと向きを変えた。
制服のサヤカの影になっていて分からなかった。
顔だけ向けていたユミナは上半身裸だった。
その裸の背中をサヤカは抱き締めていた。
驚く俺にユミナは平然と俺に向き直る。
柔らかな曲線の乳房を隠そうともせず、右手で背後のサヤカの顔を抱き、導くように耳にキスをさせた。
ユミナはサヤカの左手を取り、自分の乳房に当てがった。
「やめてくれ」
願いもむなしく、サヤカの指先はまっすぐにユミナの乳首に辿りつき、軽く触れて戯れた後、左手全体で乳房を包み込んで愛撫した。
うす暗い部屋の中、見たくない光景がモニターから発せられるぼんやりとした光に包まれていた。
夢ならば覚めて欲しかった。
声にならない慟哭が下から俺を突き上げる。
三角関係?
三角形の内角の和は百八十度。俺達は決して交わることができないようだった。
そしてサヤカへの思いは言いようのないものに変わりつつあった。
同情?
蔑み?
嫌悪?
俺には分からない。
ゆっくりと俺は二人に背中を向けた。
「言ったでしょう、相性抜群なんだって」
ユミナの声が背中に容赦なく突き刺さる。心無しかユミナの声が上ずって聞こえるのはわざとなのかそうでないのか。
そして最後の言葉は深く俺を傷つけた。
二人の名を思い出すのも嫌になるほど完膚なきまでに。
「私達を見て欲情する前に出て行って」
<了>
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