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 「お隣、空いてます?」
 全身黒尽くめの洋装で足を組んでポップコーンを頬張っている男にユキが訊いたのは予告編も終了し間もなく本編が始まろうとする映画館だった。


キネマのやうな




 「あ、どうぞ」
 いでたちとは裏腹にどこか耳に残る少し甘い声で男は少し微笑んで答えた。
 見たところ男は一人のようだった。ユキは軽く頭を下げて男の隣に腰を下ろした。
 映画は話題の洋画で、広く名の知られた若手俳優が今までのイメージを打ち壊す殺人犯に扮するサスペンス仕立ての話だった。
 ブザーが鳴って場内が暗転し物語が始まった。
 曜日のせいなのか、時間のせいなのか、水曜日の午後十時スタートの館内の席はまばらな人影だった。
 ガラガラの館内で見知らぬ男の隣にわざわざ座るのも気が引けたのだが、ユキはいつもこの近辺の席で観ていたので、自分を押し通し、男に声をかけたのだった。
 しかも今日のユキなら、例えダメだと言われても男の隣に座っていただろう。

 映画の最中にはユキはいつものように、軽く声を上げたり、のけぞったりして物語に入り込んだ。そんなユキを男が可笑しそうに、けれど優しい眼差しでユキを見ているのにも気がついてはいたのだが気付かない振りをして物語に没頭した。
 大きく場面が変わる時に左の肩をトントンと叩かれた。
 見ると男が微笑みながら黙ってポップコーンをユキの方に差し出した。暗い中で男が「ど・う・ぞ」と口を動かしていた。
 一瞬迷ったが軽く会釈してユキはポップコーンの袋の中に手を伸ばした。

 映画の後半は展開に次ぐ展開で、主人公の俳優が悪役なのかヒーローなのか、何よりも本当に殺人を犯したかもあやふやになるようなストーリーに片時も目を離せなかった。
 そして大ドンデン返しのエンディングを迎え、クレジットロールが終わって場内の明かりが付いてもユキは悲しい結末の余韻に浸ってうっすらと涙を浮かべていた。
 少ない観客がみな出て行った後、ユキは立ち上がった。
 出口に向かって歩き出そうとした時、未だ座ったままの男が声をかけた。
 「人生のスタートは闇だ」
 劇中で主人公が呟いた台詞だった。
 ユキは前を向いたまま、その後に続いた台詞で答えた。
 「先の光に辿り着けるのはほんの一握りだ」
 男はほおっと息を漏らし、隣のカフェで、どうですか?と続けた。
 ユキが振り返った時、既に男は立ち上がって手を通路の方に伸ばし微笑んでいた。
 気をつけなきゃと心の中の誰かが小声で囁いた。
 しかしクセになりそうな甘い声の持ち主に怪し気な雰囲気は感じられなかった。

 ざわめく店内はみながめいめい見終わった映画の感想をてんでに話していた。
 男はアメリカンを飲み、ユキはストレートティーを飲んでいた。
 「しかしあんな結末とはね」
 「でもいい作品だったわ」
 意外に長身の男はやはりゆったりと足を組んでいる。
 薄いオレンジのサングラスの奥の瞳は映画の余韻の中をたゆたいながらユキを見ている。
 「少し伏線が難し過ぎるかも」
 「そうね、でも」
 男の年令は二十代後半だろうか。もっと若くも見えるが物腰が落ち着いている。
 「あれだけの伏線のおかげでラストが重厚になった気がする」
 「そうだね」
 コーヒーを一口飲んでから、映画、好きなの?と男は聞いた。
 「ええ」
 「だろうね。あんなにすぐに台詞で返ってくるとは思わなかった」
 ユキはわざと意地悪な顔をして「もしかして試したの?」と小声で訊いた。
 男もわざと大袈裟な仕種で首をすくめて「試すなんて滅相もない」と手を振った。
 おっとりしているのかと思ったが案外機転がきくようだ。
 「僕はカズ。前後してしまったけどよろしく....はじめまして、かな」
 カズは自分の冗談に軽く笑った。
 「私は......」
 言いかけてユキは口籠った。その前に気になっていた事を訊ねることにした。
 「どうした?」
 「このカフェのほとんどの店員さん、しかも若い女性とお知り合いのようだけど?」
 事実、女性店員はみなカズに軽く会釈したり微笑みを投げかけていることにユキは店に入った時から気付いていた。
 カズはこらえる様に笑ったあと、ついに「ははは」と声を上げた。
 「いや、参った参った」
 「笑い事じゃないわ。誘われて入ったカフェで他の女性に毒を入れられちゃたまらないもの」
 カズは少し改まってユキに向き直り軽く頭を下げた。
 「本当に参った。僕は良くここに映画を観に来るんだ。その後カフェに来るのが習性になっていてね。仕事の打ち合わせでも良くこのカフェに来る。まだ信じられないのなら、この映画館の支配人にカズってどんな人?って聞いてみるといい。公私ともに僕の人生の師匠なんだ」
 「そう」
 しかし今日のユキには、嘘が無さそうなカズの言葉も悲しいかな、耳を通り過ぎるただの羅列でしかなかった。
 「.....今日三回目だ」
 カズは少し悲しそうな目でユキを見詰めた。
 「初めて話し掛けてきた時。ポップコーンを差し出した時。そして今」
 ユキはカズの次の言葉がある程度予想は出来た。
 ─────私だって完璧じゃないわ。
 「時々ものすごく哀しい目をするね」
 「哀しい事があったら涙が流れるでしょう?それを耐えてると目がSOSを出すのよ」
 カズは黙って聞いていた。
 「ああ早く涙を流させてくれ、全部一気に流してくれって言って私のコントロールを外れようとするから、せめて家に帰るまではってせめぎあってるのよ」
 細い指で煙草を一本取って火を付けるとカズはふうっと煙を天井に向かって吐き出した。
 「今日の映画は気晴らしになった?」
 「あんまり覚えてないわ」
 「.....我慢するなよ」
 「我慢だなん─────」
 「台詞を覚える程のめり込んで観てたじゃないか。何かを忘れる為に」
 優しい瞳のまま核心を突くカズにユキは思わず口走ってしまった。
 「五年の付き合いが終わってしまったら、人殺しの映画でも観たくなるわ」
 「あのさ」
 カズは嫌味に聞こえない確かな技術ですうっと話題を変えた。
 「ラジオって聞く?」
 「ラジオ?」
 「うん」
 「昔はFMを良く聴いていたわ」
 「土曜二十三時、FM二局がしのぎを削っていい番組を流してる」
 「そう」
 「ふざけてなく、甘ったるくなく。映画もいいけどたまには聴いてみるといい」
 「気が向いたら聴いてみるわ」
 ユキはバッグを手許に引き寄せた。それを見てカズも煙草を消した。
 「ここは僕が出すよ」
 「駄目よ、知らない人に奢ってもらうと気持ち悪いもの」
 「誘ったのは僕だ。店員が君に嫌な思いをさせる店を選んだ責任を取らせてくれよ」
 ユキは思わず笑ってしまった。
 「ありがとう」
 席を立つとユキはカズに向かって言った。
 「店員さんの事、余り気にしないで。気になっただけだから」
 「今日はそういう事にしとくよ」
 店を出て、お互いが別れようとした時にカズは思い出したように言った。
 「そうそう名前、まだ聞いてないよ」
 ユキは二、三歩歩いてから振り返って答えた。
 「ユキよ」
 「おやすみ、ユキ」
 「おやすみなさい」
 カズは背中を向けて歩き出した。ユキも踵を返して帰路につく。
 何故だろうか、言葉を交わすだけで優しさに包まれるような。
 「錯覚よね、今日の今日だもの」
 独りごちて歩を進める。家に辿り着くまで瞳はもうもたないだろう。
 視界が緩やかにぼやけ、波打ってくる。
 温かな涙が一筋頬を伝ってアスファルトに落ちた。

 「忘れ物は無いわよね」
 ユキは部屋に積まれた段ボールの山を一つずつ指差しながら確認した。
 明日の朝には引越屋がこの荷物をすべて運んでしまえば終了だ。
 車に積んで自分で運ぶのは大きな赤いバッグに詰めた細々としたものと、毛布が一枚、文庫本の小説が一冊とCDラジカセだけだ。
 段ボールに詰めるまでは次から次に思い出が溢れて作業にならなかったが、今このガランとした部屋を見るとここで過ごした五年は遠い昔のようだ。
 電気を消して小さなソファに丸くなり毛布をかぶった。
 遠い昔のようだと思っていても、その最後の夜がこんなに侘びしくて寂しいものだとは思ってもいなかった。
 しばらく丸まっていたが、棄てられた猫のような夜に耐えかねてユキは起き上がった。
 「ビールでも買っておけばよかったかな」
 ユキは何の気なしにラジカセの電源コードをコンセントに差してスイッチを入れた。
 が、CDはすべて段ボールに入れてしまっていた。
 ここで過ごす最後の夜ぐらい綺麗にまとめたいのにこの様だ。
 仕方なくユキはラジオのスイッチを入れた。
 サーと言うヒスノイズの合間にR&Bが流れてきた。大好きなアメリカの女性三人組、TLCの歌声に救われた気がした。聞いているうちにユキは何か引っ掛かったがそれが何だったのか思い出せなかった。
 時刻はあと十分と少しで0時を迎える。
 歌が終わるとジョージ・ウィンストンのピアノが流れてDJが静かに話し始めた。

───僕が勝手に始めてディレクターから大目玉を喰らった、番組最後のこのコーナーも今週で三回目になりました。未だ僕の捜索人は見つかっていません。彼女は元気にしているのでしょうか?

 どこかで聞いた声だ。ユキは軽い胸騒ぎを覚えつつ記憶を辿った。

───確かに五年という歳月は長い。けれどそれよりも長い時間が君の前にはあるのです。沢山涙を流したら前を向いて歩き出そう。たまにサスペンス仕立ての人殺しの映画でも観て気分転換をしたならもう大丈夫。

 ユキははっきりとあのオレンジのサングラスを思い出した。

───そして毎週土曜、僕の声で元気になってくれるのならこれ以上の幸せはありません。

 クセになりそうな甘い声。そうか、そうだったのか。

───もしこの番組を聞いてくれていたら是非番組にメール下さい。もう既に二人のニセモノが来てます。でも本当の彼女しか知らないキーワードがありません。キーワードは、人生のスタートは闇だ、この後に続く台詞です。おっと時間もそろそろ無くなってきました。今日はこの曲でお別れ、少し古いけれど名曲です。FirehouseのWhen I look into your eyes. 毎回このコーナーの曲はユキ、貴方に捧げています。Get in touch with me! Good-Night!DJカズでした。

 ピアノで始まるバラードが流れるとあの日流した涙とは別の涙がぽたぽたと落ちた。
 優しいバラードを聞きながらユキは思った。明日メールを打とう。私は元気に旅立ちますと。

 そして、ありがとう、と。

<了>

 
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