何故僕が、命の灯火を自らの手で吹き消そうとするこの瞬間にこの曲を、否、このアルバムを選んだのかを語らねばなるまい。
アルバムタイトルはラルゴ、演奏者はブラッドメルドー。
沸き上がる情熱。確かな技術。ジャズピアニストにしては幅広いレパートリー。
アルバムが始まると、僕は静かに瞳を閉じる。この心地よいジャズの掌に包まれて、自分がかつて演奏していた頃を思い出す。
フォアローゼズ
寂れた場末のクラブが僕の主戦場だった。
いつもいつも聞き分けの良い客ばかりではない。ぐでんぐでんに酔っ払って絡んでくる客もいれば、演奏している僕の手の間から鍵盤を悪戯する輩まで。このクラブに来るまでは、そんな事をした客なんて吹っ飛ばしていたものだ。なんとなればそこらのウィスキーのボトルをカウンターで叩き割ってネックを持ち、向かって行ったことすらある。何軒のピアノがあるバーを渡り歩いたか自分でも覚えていないほどなのだから、同じ数だけ僕は「戦って」きたことになるのだろう。そんな僕をクビにする時に大概のオーナーはこう言う。
曰く、客に絡む演奏者は不要。
曰く、喧嘩で指を怪我する事を怖れないとはピアニストにあるまじき行為。
どちらもまるで的外れな事この上ない。噴飯物の詭弁に過ぎないではないか。少なくとも僕は相手が手を出すまで手を上げた事はない。こんな僕だが自分の領分は分かっているつもりだ。僕はピアノを弾くだけなのだ。そして僕に言わせれば指の怪我を怖れない事がピアニストの条件ならば、その前に人間をやめている。自分の尊厳も守れない者が、どうやって音楽で人を感動させる事ができるのか?僕は僕のこれまでの生き方に曲がりなりにも誇りを持っている。持っているからこそ、僕の領分を侵す者を排除する。ピアニストはいつも青白い顔をして、なよなよと演奏しなければならないのか?
そして最後のバーへ。
わずか四カ月だったけれど、あのバーが僕の最後の舞台だった。僕はここを最後にこの稼業から足を洗った。一旦そう決心すると、あれだけ僕を煩わせた酔客すら愛おしく見えてくるから不思議なものだ。僕はしばらくの間、トラブルらしいトラブルもなくピアノに向かっていた。人相は悪いが人のいいオーナーが、雇った時はどうなることかと思ってさ、などと閉店後にチビチビとやりながら呟くのを聞くと、よっぽど周囲に反対されたんだろうなと思い、済まない気持ちで一杯になった。前のバーをクビになって暇を持て余していた時に、昔スタジオミュージシャンでギターを弾いていたオーナーが僕の腕を見込んで拾ってくれたのだ。お世辞にも広いとは言えないバーはオーナーの趣味が良く反映されていて、何より店の雰囲気が良かった。ずっと座っていても後ろめたさを感じない、という僕が一番客として望む雰囲気を備えていたからだ。チェアやテーブルが特別に高級とは言えないのだが、スポットライトで間接照明を施している薄暗い店内に似合う落ち着いた風合いの色が足下から心地よさを演出していた。
そのオーナーの哀願とも言える慰留を振り切って、一昨日最後の演奏を行って僕は辞めた。店を出る前にオーナーとバーテンと女の子の三人が僕に花束と僕が好きなフォアローゼズのボトルを一本餞別代わりにと贈ってくれた。そのフォアロゼは今僕の目の前のテーブルに立ててある。僕の最期を看取る牧師のように穏やかに、そして僕の卒塔婆のように静かに。
僕は今一度道具を見回した。
ホームセンターで買ってきた十二時間は対応できるタイマー。キャンプ用のナイロン製のブルーシート。水を吸収し易い綿の敷布団。そしてさっきフォアロゼで流し込んだ睡眠薬の瓶。水を吸った敷布団がこんなにも冷たく、背中の体温を奪ってゆくとは思いもしなかったが、眠りに落ちれば分かりはしない。後はタイマーが数時間後にオンになって、深い眠りの中にいる僕を電流が駆けずり回り、痛みすら感じる間もないままこの世知辛い人生から飛び立てるはずだ。
今思えばレイコと離れた十年前から僕の人生は少しずつ少しずつ道から外れていったのかもしれない。レイコとの離別をその理由にするつもりはないが、多かれ少なかれ変容していったのは確かだろう。甘く激しくそして切ない時間はあまりに短すぎた。無鉄砲な勢いそのままにその後もやっていけるだろうという僕の青さは結果、僕の手元からレイコを失うという何物にも代え難い失望を突きつけた。
ああ、時を失う絶望とはかくも深いものなのか。
僕の頬に一筋涙が滑り落ちる。
そう、レイコを片時でも思わないが為に僕は酒を浴び、倒れるまで鍵盤に向かっていたのだ。酔客との諍いですら僕にとっては涙と絶望から離れることのできる希有な時間。取り戻せない光を忘れる為に闇の中で僕は甘く切ないスタンダードを弾き続けていた。指先が擦り切れても構わない。腱鞘炎があざ笑っても構わない。倒れても倒れても。例え聴く者が居なくとも。例え悪魔だけが僕の横で欠伸をしていようとも。鍵盤に命を刻み続けて僕は生き永らえるのだ。指先からつながる意識。鍵盤は正直に真直ぐに僕を包む。ひどく心が沈んでいようとも静かに僕のそばでその歌声を聴かせてくれていた。僕はただ、失ったものに捧げるレクイエムを弾くことでその命を保証された歯車の一つに過ぎない。だからこそ僕の演奏を邪魔する者は神とて容赦はしない。腕は確かなれど性格に難ありと流布された僕の評判は当然の帰結。レコード会社からの依頼は数知れず。ライブの依頼はひっきりなし。だけども僕は僕自身の為にしかピアノを弾かない。否、弾けないのだ。だからこそ腕を上げる為に努力は惜しまなかった。腕を上げて一段上に上がる度僕の闇は少しずつ晴れていくのだから。腕は確か、などとよくもそんな簡単な一言で僕を表してくれたものだ。僕は僕の人生を鍵盤に刻んでいるのだ。指を怪我しようとも別の片手で弾くさ。ベースラインだけでも名曲はその輝かしい姿を垣間見せてくれるのを知らないのか。ピアノは心。僕のすべて。
一年前、別れてからはじめてレイコの声を聞いた。
夜十時を回って演奏が一段落しフォアロゼで口を湿らせている時に、バーテンが店の電話の子機を持ってきたのだった。名前を仰らないのですが、と僕に少し嫌らしい笑いと視線を投げかけて渡した子機は生温かくて気持ち悪かった。僕はぶっきらぼうにもしもしと言った。僕の知り合いなら演奏中と知っていてこの時間に電話をかけ不興を買うような真似はしないはずだ。となれば怪我をさせた酔客の文句か何かか。しばらくの沈黙の後、レイコです、と耳に入った時、予想外の声に僕は固まってしまった。手も足も、目も口も、呼吸すら覚束ないほどに。色々人に訊ねてようやく店の番号が分かったの、とレイコは言ったような気がする。というのは僕はレイコのある一言以外よく覚えていないのだ。いくつか近況のような言葉を互いに交わし、再び沈黙が流れた。僕はその間レイコの声の調子を注意深く聞いていたが、皆目見当がつかなかった。悲しそうでもなければ浮ついている訳でもない。気分が高低のどちらにも振り切れていないのに何故僕に電話をかけてきたのか。いやレイコとの電話が嫌だった訳ではない。しかし九年ぶりに、しかもお互いに傷を残して別れた人間同士が、いつも話しているように話す事ができるのだろうか。けれど僕の耳はレイコの精神状態を推し量ることが出来なかった。
元気なのかと訊ねると、はいと小さく答えるレイコに、僕は電話を切られる覚悟で訊ねた。いや訊ねなければならなかった。この機会を逃せばもう二度と話すことは無いと思ったからだ。
政治家の妻は幸せか。
先程とは違う種類の沈黙が流れているのが分かった。レイコの後ろには何も聞こえない。静かな場所らしかった。しかし何分にも感じられた沈黙が徐々にレイコの押し殺した息遣いで壊れていった。くっくっと聞こえる音はレイコが嗚咽をこらえている音だった。規則正しく聞こえていたその声は僕の呼吸にシンクロし僕の心臓を絞め上げた。同じリズムが少しずつ間隔が空き、そしてレイコは大きく息を吸い、大きく吐き出した。
逡巡。決意。
ほんの少しだけ静寂が訪れ、レイコはそれらをすべて払いのけ、はっきりと幸せよと言った。
そうか、と答え僕は続けて子供はと訊いた。八才と四才の兄妹よと答えるレイコにもう嗚咽の痕跡はなかった。
幸せなら良かった。僕は心からそう言った。その瞬間には迷いも絶望もなかった。レイコが幸せならば。僕は再びそう続け、そろそろと言うとレイコは御免なさい、突然、仕事中にと答えた。じゃあとお互いに言い、そして静かに二人は電話を切った。時間にして十分もない会話だった。幸せよ、と言う言葉がぐるぐると頭を回るのを感じながら白と黒の鍵盤を見つめ、僕はあの瞬間を思い出していた。別れて間も無い時。親に引き離された自分を、運命を、親を、そして諾とするしかない相手すらを恨み、呪い、沈みこんだ。すぐにやってくる自己嫌悪はレイコすら憎悪する自分の闇をさらに暗く覆い尽くした。
幸せなら良かった。僕は何度も繰り返しながら、止まることのない涙を拭きもせずに四曲を夢中で弾いた。すべてブラッドメルドーの曲だった。指先の動きがまどろっこしく、気持ちについていかなかった。冷静に聞けばその時の演奏は演奏と呼べる代物ではなかっただろう。けれど僕は弾いた。
その音階に身を任せ、涙が贖罪を洗い流すことを祈りながら。
睡眠剤が効いてきたのだろうか、眠りに誘う白い手がさっきからしきりに僕の髪を引っ張っている。何故か僕は小学校の音楽室のグランドピアノを思い出していた。夕焼けが窓から優しく包む茜色の教室で、黒光りするその体を支える華奢な細い足。来る者を拒まない様子の鍵盤は、温かな母の手に似た心地よいオーラを放ち、天蓋を開いた静かな佇まいはまさに優しく舞い降りた天使の姿。神々しく清々しいその姿を僕ははっきりと思い出していた。
転機は二日前。
初めて聞いた電話口の男は、妻のレイコが亡くなりました。生前の希望で葬儀に参加してもらえませんか、と冷たく機械的に言った。眠りを電話で起こされた僕にはその時が朝だったのか昼だったのかさえ分からないほど狼狽していた。漏らさず聞かなければという思いとは裏腹に右肩の付け根が痛かった。無理矢理にもぎ取られたのかと思えるほどにここしばらくの間悩まされた痛みの原因がはっきりとしたようだった。
僕は丁重に断った。
今さらどの面を下げて、生き別れた恋人の死に顔を見に行かねばならないのか。
その後僕は溢れる涙をこらえながら、すぐにCDを送りますからそれを一緒に荼毘に付してもらえませんか、それで僕は十分です、レイコさんも喜んでくれるはずです、と言って電話を切った。旦那の話では数カ月前に行った病院で癌が見つかり、その時点で余命数カ月と宣告されたそうだ。懸命な治療虚しく、レイコは逝った。まだ小さな子供を残して。
僕はポタポタと落ちる涙を構いもせずに三枚のCDを選び出した。二人で昔よく聴いたバンドが一枚。自主製作で作った僕のアルバムの中で一番のお気に入りが一枚。そして、レイコが幸せだと力強く言ったあの晩に弾いたブラッドメルドーを一枚。この三枚が全て言い表わしてくれる。僕は確信した。
CDを送ったその足でバーのオーナーに、都合で辞めなければならなくなった、演奏も辞めるつもりなので申し訳ないがと電話をした。
僕は愛する者すら守れなかった。
僕は自分の生業すら極めることができなかった。
僕は自分の人生すら呪ってしまっていた。
しかしレイコと出会ったことで僕は生きることの意味を本当に知ったように思う。僕をピアノに真剣に向かわせてくれたのも結果的にレイコだ。レイコは今の僕のこの姿を見て悲しむかもしれない。けれども許して欲しい。例え別れていても生きている君が幸せならば僕はどんな辛苦にも耐えることができる。君が何不自由なく幸せな家庭で生活できるのならば。これは嫌味でも皮肉でもない。僕の心からの本心だ。生きているからこそ僕も頑張れるのだ。
目に見えなくとも、話をせずとも、別々の人生を歩んだとしても、つながっている糸は僕の支えだった。その糸が切れた今、僕は僕自身の存在価値を失った。
眠りが誘う。
眠りが囁く。
ああ、耳に届くのはブラッドメルドーのピアノ。
ああ、このアルバムを聴きながら逝くのならば悔いはない。
ああ、レイコ。
ああ、君の声も聞こえるよ。
ああ、
ああ、
<了>
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