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 僕はナカツガワ部長に指示されて、会社から1時間ほどのところにある取引先に集金に向かった。
─────あんな会社だとは知らずに。


最大のピンチ




 H産業。
 今回の市民会館建設工事の川上から数えて2番目。ウチは4番目。すぐ上の3番目の会社に請求書を発行したのだが、何故かそこをスルーして、その上のH産業へ集金してくれと言われたのだ。3番目の会社とは現場でも会っていたので何の心配もしていなかったが、その上となると話は別だ。初めて行く会社はやはり緊張する。

 駐車場に車を止め、吸っていた煙草の煙をフウッと強く吐き出す。
 ルームミラーを見ながらネクタイをキュッと締め直す。
 「ウシッ」
 自分に気合いを入れて、鞄を掴むと僕は勢いよく車を飛び出した。

 エレベータで4階に上がり扉が開いた瞬間、僕は一瞬躊躇した。扉が開いたそこはすでにオフィスになっており、エレベータから歩いて3歩ほどのところのカウンターに受付嬢が座っていたのだ。てっきり廊下になっているものとばかり思いこんでいた僕はリズムを崩してしまった。
 フロアに足を一歩踏み入れた時、かすかな音量でピアノ曲が流れているのに気付いた。
 ショパン?BGMにしてはどうだろう?取ってつけたような気がしないでもない僕はその時からすでにこの会社に漂うビミョーな空気を感じ取っていた。
 フロアはだだっ広く、どうやら二つの部屋をつなげて一つにしたようだった。

 「いらっしゃいませ」
 「あ、N株式会社と申しま─────」
 「承っております」
 みなまで言わせず、受付嬢は立ち上がった。どうにも無表情な顔立ちがこれからを暗示していた。
 案内されたのは少し奥の窓際、日射しが燦々と降り注ぐ、ガラステーブルを挟んでソファが向かい合う応接スペース。パーテーションなどは何もない。社内はガランとしていて、受付嬢のほかには男性が2人だけだった。
 この雰囲気は何だ。
 建物自体が古いのは仕方がないにしても、社内のこの空気。
 まるで会社の全てを白いテーブルクロスで覆い隠したような雰囲気。しかしそこかしこからえも言われぬ怪しさが滲みでている。
 無理矢理にそのわざとらしいテーブルクロスを引き剥がしたい衝動にかられ始めた時、はるか遠くに座っていた男が、肩で風を切るとはこうやるんだぞ、とジェスチャーで示すようにノッシノッシと近付いてきた。
 「おう、なんや」
 ノーネクタイで白いワイシャツの上から2つのボタンを外した、体のゴツい、髪に固く、固く、そして固くパーマをあてた、年の頃40を過ぎたであろう男性がドスンとソファに腰を下ろすやそう言ったように聞こえた。
 「は」
 僕は思わず口走った。
 「なんやっちゅうとんじゃ」
 僕は少しムカついた。きちんとアポを取って来ているのにそんな言い方はないだろう。
 自分自身を落ち着かせるために僕は名刺入れから自分の名刺を取り出し、相手に差し出した。
 「こんなペーペーウチに寄越しやがって。オマエんトコの部長によう言うとけ。テメーで顔出せってな」
 男はチラッと名刺を見るやそう言った。
 「で、なんや」
 「はい、先日の市民会館の御集金の件ですが─────」
 「払う、ちゅうとんじゃ。何回言わせりゃ気が済むんじゃ、ボケ」
 ボケと言われて僕はカチンときた。と、同時に頭の中でもう一人の僕が「やめとけやめとけ」と囁いている。
 「ええ、でも請求書発行から3カ月が過ぎても御入金も手形の振り出しもなく、今日ですでに丸5カ月が過ぎ─────」
 「払う言うてるやろ!」
 男はいきなり立ち上がって頭上から僕に怒鳴り付けた。
 「ええ、ですからそれがいつ頃になるかを御相談したくてですね」
 同じように立ち上がって反論したい気持ちを抑え、僕は下から男を見ながらどうにかそう言った。
 男の胸元では金色の、チェーンのような太さの、ネックレスとはとうてい言えない物体が光っていた。
 「いつ頃になるんかのう。払うのは確かなんじゃけどなあ」
 大声にも怯まない僕に男は声色を変えてそう言う。作戦変更したようだ。
 「できれば今日、手形だけでも頂いて帰りたいんですが」
 「今来て振り出しできるか、ボケ」
 「それでは現金でも構いませんのでおいくらかだけでも─────」
 「工事費は手形に決まっとるじゃろうがっ」
 男は再び頭上から怒声を浴びせる。
 「しかも払う言うてるワシから金ムシって帰るんか、オマエは!オマエんトコはどないな社員教育しとるんじゃっ!」
 こちらから言わせれば男の会社の方が「どないな」会社だ。
 それはさておき僕はとにかく必死に頭の中で考える。こんなヤ○○まがいの会社とは部長は一言も言ってなかった。確かにこの業界、ガラが悪い会社は掃いて捨てるほどある。けれどここまでひどいのは僕も初めてだった。今はとにかく相手のペースに巻き込まれないようにしなければならない。下手に頷いてよく見たら債権放棄します、なんて書類を持たされるかもしれない。集金に来てそれはいりませんなんてやってしまったら会社には戻れない。

 不意に部屋の一番奥の木製のドアが開いて一人の男が出て来た。
 なんだ奥にもまだ部屋があったのか、とそちらに視線を移した僕は──。
 ───僕は凍えた。
 今目の前にいる男とは格が違う。
 素人の僕でも一目で分かる。

 ゆったりとした足取りで、しかし僕達を全く見ずに、こちらに近付いた男は低い声で、ヤスダ、どうした、と言った。慌ててヤスダと呼ばれた最初のネックレスが身を引いた。
 「いえ」
 「どちらさん?」
 深い紺のダブルのスーツ。貫禄もオーラも、まさにケタ違い。
 ただ、スーツに白いストライプが入ってなければ大手企業の部長に見えたのに。
 「Nです」
 ネックレスが耳打ちするように言った。
 「ああ」
 ここで初めてダブルスーツは僕の目を見た。市民会館では御世話になりました、と言った目が笑っていなかった。僕は目を射抜かれて、息が出来ない錯覚に陥りそうだった。
 「は、こ、こちらこそ、お、御世話様でした」
 「で、今日はどのような?」
 ダブルスーツは座りながら煙草を取り出した。すかさずネックレスがライターを取り出し立ったまま火をつける。
 僕は迷った。できればこのまま帰りたい。いえ、すみませんでした、と真直ぐエレベータに走るか?
 「今日は御集金に伺いました」
 意志とは裏腹に僕ははっきりとそう言ってしまった。言ってしまって誰かが頭の中で「オイオイッ」と叫んでいる。
 ダブルスーツの眉がピクッと動いた。
 しかし動いただけで表情は全く変わらなかった。ゆっくりと煙を吐き出しながら、それは御迷惑をかけておりますな、と言った。
 「こちらもこの時代、中々厳しくてね」
 「はい」
 「なかなか運転資金に四苦八苦しておるんですわ」
 「はい」
 「ところでお宅のヤギシタ専務はお元気にしておりますか」
 ダブルスーツは胸ポケットから名刺を取り出し、ヤギシタ専務に今度御食事でもどうですかとお伝え願いますか、と言いながらテーブルの上を滑らせて僕に差し出した。
 「あ」
 と僕が慌てて名刺入れを探ると
 「結構結構」
 と低音を効かせて手を振った。厚手で、薄いクリーム色に銀の和紙が刷り込んである「いかにも」な名刺にはH産業取締役営業本部長オオヤマと太い明朝で縦書き印刷してあった。
 「必ずヤギシタには伝えます」
 「お願いしますよ」
 表情はともかくとして、和んだ会話をダブルスーツが続けているのをネックレスは苦々しそうに見ていた。
 「それで支払いの件ですがね」
 「はい」
 「合計でおいくらでしたかね」
 そうきたか。
 「はい、423万8千円税別です」
 「領収書は?」
 「はい、持ってきておりますが」
 「そう、じゃあおタクも手ぶらじゃあ帰れないだろうから」
 ダブルスーツはネックレスに一言二言小声で囁くと、ソファに深く体を沈めた。
 「今日はこれで勘弁して頂きたい。今日のウチの誠意っちゅうことで」
 ネックレスが数枚の紙幣を手にして僕の前に差し出した。
 「はあ」
 僕は紙幣を受け取って数えた。ピッタシ端数の3万8千円だった。
 「残金は数回に分けて手形でお願いしたい」
 ダブルスーツはお願いしたい、の部分に力を込めて言った。
 「何なら私の方からおタクの専務にお電話しておきましょう」
 「はあ」
 僕は経理から持たされた白紙の領収書に金額を書き込もうとしてふと思った。嫌な予感がしたが、また口が先に動いてしまった。
 「この3万8千円、別に消費税は頂けるんですよね」
 ダブルスーツはソファの背に体を預け、顔を天井に向け、目を閉じたまま、面倒臭そうに言った。
 「アンちゃん、細かい事は言いなさんなよ」
 僕はさっきまで流れていたショパンが止まっていることに気付いた。しかし所詮ショパンをかけたところでここの淀んだ空気は誤魔化せまい。
 「いえ、それではウチも処理上困ります」
 「本部長が、ウチの会社が現金で払う言うとんじゃッ、いつまでナメた口きいとんじゃ、コラァ!」
 それまで我慢していたのだろう、ネックレスが今にも掴みかからんばかりの勢いと口調で罵声を発する。
 僕はどうしても言いたかったことを遂に口にしてしまった。
 「いえウチもここまで我慢してきました。それがこの3万8千円だけでは、しかも税抜きだなんて困ります。せめて半金半手にして頂けませんか」
 「なにォォォォ、このクソガキがぁ」
 いきり立つネックレスを右手で制し、ダブルスーツはゆっくりと身を起こした。
 「アニキ、アニキッッ」
 ダブルスーツの右手が結界のようにネックレスを辛うじて止めていた。もしもそれが無ければ僕は今頃ネックレスの怒りの鉾先として拳を受けていただろう。
 少しずつ体を起こしながら僕の方に顔を近付けるダブルスーツ。
 と、突然ダブルスーツは左手でドンッ!とテーブルを拳で叩いた。
 僕の背中は電流が走ったようにビクンと伸びた。弱気なところを見せてはいけない、と頭では分かっていても心は正直だった。
 恐ろしさが僕を包む。
 ダブルスーツは膝の上に肘を突き、手を組んだ。
 「暑くなる今からは小指の関節が痒うてねえ」
 囁くような小声で左手の小指の先をさすった。
 僕の目の錯覚でなければ、さすっていた小指が1cmほど伸びた。
 義指───?
 僕は絶望した。
 ダブルスーツはさらに続けた。
 「アンちゃん、」
 僕はもう返事すらできずにいた。
 ほんの何秒かダブルスーツは言葉を留めた。
 そのわずかな沈黙が僕には数分にも数十分にも感じられた。
 ようやくダブルスーツが口を開いた。
 同じく囁くような声で。
 しかもその台詞のあと、瞬きもせず、眉一つ動かさず、憤怒に身を任せる鬼のような形相で僕を真直ぐに見詰め続けた。今日一番の表情だった。

 「こっから無事に帰りたいか?」



 僕はどうにか震える手で領収書を切り、やっとの思いで立ち上がり、有難うございました、と上の空で呟き、エレベータに向かった。
 受付カウンターで受付嬢が、あら、いつ切れたのかしら、と言って何かのスイッチを入れた。エレベータを待つ僕に再びショパンが見送るように流れ出した。
 ダブルスーツの最後の台詞の後、喉まで出かかっていた、それは脅迫になりますよ、という言葉はとてもじゃないが言えたものではなかった。

 エレベータが到着した。
 ショパンに背中を押されるように乗り込み、1の数字を押す。
 ゆっくりと扉が閉まる。
 ウィーンと浮遊感に包まれる。
 耳にはいつまでもショパンが鳴り響いていた。

<了>

 
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