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 砂の付いたデニムの尻を叩きもせずに啓子は立ち上がって真直ぐに波打ち際まで歩いた。途中くわえていたメンソールを放り投げて捨て何も言わず真直ぐに。一歩ごとに靴の底が砂に埋まる感触を何年ぶりかと数えながら静かに寄せる波のすぐ手前で立ち止まる。


海に流せば




 深い闇に溶けた水平線は境界すら分からなかった。水と空の分け目を探しても探しても見つからず、啓子は初めて修次とドライブした夜を思い出していた。あの時は車から眺めただけだった夜の海。遥かな闇が僅かに舌を出すように啓子の足元に波を何度も寄せる。踵を返し、その闇を背中に受け、歩き始めた所に座ったまま同じく何も言わずに真直ぐ啓子を見つめる奈々子を眺める。

 奈々子は膝を立ててぼんやりと座ったまま啓子が振り返る様を目で追いかけていた。波打ち際で一瞬動きが止まった啓子を見て、ああ多分修次のことを思ったのではないかと見当をつけ、当てずっぽうな時ほど私の勘は当たるのに、何故大事な時には感覚がベッタリとしたまま鋭さを失うのだろうとその見事な見当の後に現れた悲しさに包まれてしまっていた。そして悲しい瞳が捉えた啓子を美しいと奈々子は思った。怒りを纏い、吸い込まれそうなほどに真っ黒な空を背後に従え、静かにそして不気味にうごめく波を下僕を操るように背筋を伸ばして佇む今この瞬間の啓子は他の誰よりも美しい。修次は恐らくこの啓子の立ち姿に惚れたのだろう。何者をも恐れぬその強固な意志は一度粉々に砕けるまでは注意など聞かずに突っ走る機関車のようだ。啓子からたかだか三つしか年上でないのに十も二十も上のように感じて奈々子はまた悲しくなった。自分にもあんな頃があったと微かでも脳裏に浮かべばそれはすでに自分を傍観者に追いやる年上の余裕と言う言い訳にしかならないのを奈々子は知っていたからだ。奈々子は再び闇に溶けんとする啓子を見た。ローライズのデニムパンツは下半身の細さを際立たせ、辛うじて見える薄いパープルのノースリーブのシャツは丸首の襟元に付いた僅かばかりの飾りをはためかせているようだった。むき出しの腕を組み啓子は立っている。華奢ながら何に対しても真直ぐに進むこの啓子の服を少なくとも修次は二度脱がせていた。

 啓子は怒りに任せて立ち上がったものの、全く動揺する様子のない奈々子に静かに怯えを感じ始めていた。やはり奈々子は奈々子だったようだ。奈々子はもしかしたら身を引くと言うのではないか。いつも見せる聡明な横顔で素早く判断し的確な答えを導き出したらそれに向かって動く奈々子の立ち振る舞いを啓子は忘れていた訳ではなかった。いやむしろそれだけを心に留めて今日は顔を合わせようと思っていたほどだ。それなのに何故私は分別のない女のようにのしのしと歩いて相手を睨み付けているのだろう。一番争いたくない相手に喧嘩を売って、無残に打ちのめされるのは大馬鹿者のすることではないか。それこそ奈々子が口を酸っぱくして言い続けてきた全体を見よという言葉に反しているではないか。目先の事に惑わされず、常に先を見据えているからこそ奈々子は奈々子なのだ。そもそももしかしたら奈々子と修次が、という一抹の不安を隠し通して目先の修次の手に身を任せたのは私ではないか。組んだ腕が痺れるほどに力を込めていたのに気付いた時啓子の逡巡は一旦止まった。奈々子のようになりたいと思い毎日頑張ってきたが最悪にも恩を仇で返す事になってしまったことに啓子は背筋が凍る思いだった。

 どれだけ考えても奈々子は啓子を責める気持ちが湧いてはこなかった。はっきりと言っていなかった自分が悪いという思いが頭から離れないせいもあるが、こんなにもあっさりと啓子に手を出した修次への嫌悪の方がどうしても上回ってしまうのだ。私を抱いた翌日に啓子と寝ていたなんてモラルを疑う。それで私よりも年上だなんて。また、そんな男を彼氏にしていた自分が情けなく、それがあるからこそ今ここで立ち上がれないのだった。普段の仕事では偉そうな事を啓子に言っていた自分の姿を今ここで砂に埋めてしまいたい衝動に駆られたのは自然な事だった。思えば思うほど手持ちぶさたになり、奈々子は周囲の砂を握っては投げ握っては投げてを繰り返していた。しかし確かに握ったはずなのにそれは投げる瞬間に崩れてしまい、手から離れた時には何の形にも見えない、ただの砂だった。七回か八回はそうやって投げただろうか。無為な行為はしかし、奈々子の虚しさを単に増幅させただけだった。
 意を決して奈々子は立ち上がった。
 ゆっくりと海に向かい、それは啓子に向かう事なのだが、しっかりと砂を踏み締めて歩を進めた。ぼんやりとしていた啓子がはっきりと見える距離まで近付く。それでも歩みを止めずに手を伸ばせば啓子に届く距離にまで来てから、奈々子は言った。
 「煙草、ちょうだい」
 予想していなかった言葉に啓子は一瞬たじろいだようだった。

 手を伸ばした奈々子に啓子は煙草とライターを手渡した。慣れた手つきで火を付けた奈々子はふうっと紫煙を吐き出した。
 「煙草、吸うの?」
 「知らなかった?」
 昼間は大勢の海水浴客で賑わったであろう砂浜は、ゆるゆると生暖かい風が吹いている。
 奈々子はもう一度煙を吐き出すとそのまま煙草を捨てて、ざぶざぶと海に入って行く。
 「ちょ、ちょっと何してんのよ!」
 啓子が声を上げるが奈々子はあっという間に膝の上まで海に浸かるほど進んで行った。そしてくるりと振り向くと奈々子は啓子に水をかけながら言った。
 「こっちに来たらぁ」
 その水をよけながら啓子は着替えなんて無いのよと返すのが精一杯だった。しかし聞こえていないような素振りの奈々子は両手を大きく広げたかと思うと、そのまま後ろに倒れ込んだ。手を広げたまま空を飛んでいるかのように水に浮かび目を閉じる奈々子。
 「何やってんのよ」
 啓子もデニムの裾を引っ張り上げて海に入る。奈々子は気持ちよさそうにゆらゆらと浮かんで波に身を任せていた。
 「帰り、どうするのよ」
 奈々子のそばで水を気にしながら啓子は呟いた。
 「あげるわ、修次」
 答えになっていない奈々子の言葉は一瞬啓子を凍らせた。動きを止めた啓子に奈々子は子供がじゃれる様に水をかけながらもう一度、あげるわと言った。
 頭から水をかけられて、とうとう啓子も吹っ切ったように奈々子に水をかけ返す。とびきり沢山の水を奈々子の顔に命中させて、どうしよっかなあっと返す。
 「遠慮すんなよっ」
 同じだけやり返す奈々子。
 「彼女いるのに遊ぶ男は遠慮しとくわっ」
 髪から顎から水が滴っている。
 「同じ職場の若い女に手を出す男は私も遠慮しとくわっ」
 濡れていないところが無いほどに水をかぶった二人は満足そうにお互いの顔を見た。
 そしてどちらからともなく笑い出す。
 「明日からまたビシビシ行くからね」
 「仕事一直線、望む所です、先輩」
 これがあるからかなわないと啓子は思った。一旦覚悟を決めた奈々子ほど怖いものはない。
 ずぶ濡れの二人は陸を目指して歩き出す。
 ゆっくりゆっくりと歩き出す。まとわりつく潮風すら今は心地よかった。手を伸ばせば届く距離を保ちながら、しかし手をつなぐ訳でなく肩を組む訳でなく、それでも同じ風に吹かれて歩く二人の中に、最初に海岸に到着した時のそれぞれの棘々しさはゆっくりと姿を消しつつあった。
 そう、それは急でなく突然でなく、水に落ちた砂が段々と溶けて見えなくなるような。

<了>

 
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