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 好きな人の指が優しく頭を包むように動き、額から後頭部へと泡と同時に滑らかに駆けおりてゆく時のあの心地よい感触は、私をひとときの中空への旅に誘うようなまろやかさ。上を向いている私は、目を閉じていても天井のシミをすぐに思い出せるように、今私の髪をすすいでいるヒロキの優しい眼差しを目蓋の裏にまるで見ているように映像化できる。


シャンプー




 外の世界が欺瞞に満ちていたとしても、身を委ねることができる安心感は何よりも心を落ち着かせる。この安心感を毎週末得るために私達はお互いの髪をこの狭いユニットバスで洗っているのだ。
 空っぽのユニットバスに体操座りで膝を抱え、頭だけは浴槽の縁に引っ掛けるように90度曲げて天井を向く。あとはヒロキが優しく疲れを洗い流してくれる。
 さすがに晩秋からは寒くて髪だけを洗うのは出来ないけれど、その分冬には風呂に一緒に入って暖め合うのだ。
 ヒロキは一緒に風呂に入るのが実は苦手だ。
 けれど寒がりのヒロキは冬だけは一緒に風呂に入ろうと誘う。
 冬以外の季節にもいつも一緒に入りたいと私が言っても「面倒だよ」と断るくせに。「だってマミに付き合ってたら体が倍以上に水ぶくれするだろ」と私のせいにしているけれど、実はペースを合わせることがヒロキは苦手なのでリラックスできないのが嫌なのだ。
 ある時、風呂ぐらいは男一人で考える時間にしてくれよ、とものすごく真面目な顔で言ったので「何を考えるのよ、風呂で男一人が」と聞くと「色々さ」なんてはぐらかすから「どうせ私には見せられない醜態なんでしょ」と皮肉を言うとさすがに不機嫌になってしまったことがある。
 「2年も同棲してて見せてない醜態なんてねえよ」
 「へえ」
 「何だよ信じてないのか」
 「あはは、そんなにムキにならないの」
 「また目が"姉貴"になってるぞ」
 「しょうがないわよ、本当に1つ上なんだもの」
 「ちぇっ」
 わざと口を尖らせるヒロキに私はその心地よさを知っているからこそ、同じようにヒロキの髪を洗う。
 ゆっくりと優しく、ヒロキの吐息が聞こえるまで何度も少し大きなヒロキの頭に沿って指を滑らせる。



 思ったよりも少ない段ボールの山をぼんやりと私は眺めて、やっとその時が現実に迫っていることに気が付いた。
 ヒロキは一段落してベランダで煙草を吸っている。
 今まで何となく目をそらし、考えないようにしていたけれど、気が付けば絶望は私のすぐ横で大きな欠伸をしながら出番を待っていたようだった。
 3カ月前、ヒロキが見たことのない女性と歩いているのを勤め帰りに私は見てしまった。
 何となく言い出せずにいたけれど、普段と違う私に気付いたヒロキは土曜の午後、目はテレビを見つめたまま「何を怒ってんだよ」と呟いた。
 食事のあとコーヒーを飲んでいた私は、見てはいなくともこちらに神経を集中させているヒロキの言葉に金縛りをかけられてしまったように固まってしまった。唇を離れたカップを戻すことすら出来ずにそのままの姿勢で次の言葉を注意深く待った。
 長い沈黙。
 テレビの画面は温泉宿を紹介する旅番組の再放送のようだった。
 根負けしたのは私の方で、「別に」と小さく答えた。小声でなければかすれた声は誤魔化せないと思ったのだ。
 「何かおかしい」
 ヒロキはやっぱりこちらを見ないまま言葉を継いだ。
 「マミは今までそういうことはなかった」
 「そう?」
 まだ声がいつもの調子に戻る自信がない私はまた小声で答えた。
 「言っちゃえよ」
 「別に」
 「ならいいんだけど」
 私はようやく腕を動かしてカップを置いた。
 続けてヒロキは「俺さ、─────
 「え?」
 ヒロキのその言葉に、今度こそ私は動けなくなった。



 ベランダから戻ったヒロキは段ボール箱を見回しながら漏れがないか確認しているようだった。部屋を見回し、いちいち指差しながら何ごとか呟いていた。
 その指が私の鏡台を指して止まった。
 その視線の先には、私の化粧道具に混じって、白い貝殻が飾ってあった。
 複雑な表情のヒロキを私は見ていられなかった。
 あの貝殻は。
 ヒロキが念願かなって希望の会社に就職したお祝いに食事をした帰り、海にドライブして砂浜で拾った貝殻だった。
 ヒロキは今まで見た中で最高のテンションだった。
 「やったぞーっ」
 ヒロキは夜の砂浜を駆け、波打ち際でそう叫んだ。うおおおーっと喜びを体一杯で表現しながら海に咆哮し続けた。
 おめでとう、と言って側に寄った私を力一杯抱き締めてありがとうマミと返す。結構我慢したのだが余りに力一杯抱き締められて私は耳もとで囁いた。
 「苦しいよヒロキ」
 「マミのおかげだと思ってる。就職活動の間ずっと支えてもらってた」
 その言葉にヒロキの無骨な力強さは安心感へと姿を変えた。
 「本当に良かったね」
 「ありがとう」
 潮風とヒロキに包まれて私は自分のことのように嬉しかった。
 そんな思いが詰まった白い貝殻をヒロキはゆっくりと手に取った。
 しばらく無言で眺めた後、ヒロキは貝殻を分け、一枚を持ち、一枚を私に差し出した。
 「これだけはどうにもできない」
 「半分にするの?」
 「もし良かったら」
 私は黙って半分になった貝殻を受け取った。
 「捨てても構わない。でも最後のお願いだ、俺が出て行った後に捨ててくれないか」
 あの土曜の午後、ヒロキは「俺さ、ここを出ようと思うんだ」と言って私をフリーズさせた。 「少し一人で考えたいんだ、いや考えて出した答えなんだ」とも言った気がする。動転した私はその時のヒロキの言葉をあまり覚えていない。
 取りあえず私の頭の中は、見たことのない女性の映像と出て行くヒロキの映像がマッハの速さでつながってグルグルと回りながら白くなっていくだけだった。



 「マミ、どうするのよ。正面に座ってたあの人、気がありそうよ」
 「ユウコ」
 「えー、今日も一人で帰るの?もう一年になるんでしょ?忘れてるってあっちも」
 「ユウコ」
 たしなめるような口調の私に大袈裟に首をすくめたユウコはビューラーをしまうとハンドバックをひょいっと肩にかけ、「コンパぐらいパァッといきなって」と鏡の前で手を洗う私の肩をぽんと叩いた。
 何も言わない私にふうっと溜め息まじりに「どっからその自信が出てくるのよ」とユウコは嘆きの台詞を口にした。
 「多分あそこの一番奥の個室からかな」
 「何言ってんだか」
 おどけて指差す私には目もくれない。
 「自信なんてないのよ、正直」
 大理石調の見るからに立派な洗面台を備えたトイレに私の声がくぐもって反射する。
 「じゃあパアッと遊んじゃえばいいじゃないの」
 ユウコはパアッとと言うのが口癖だった。仕事もパアッと、遊びもパアッとがユウコの信条なのだ。
 「何となく、よ」
 「婚期逃すぞ、そんなんじゃ」
 自動で流れ出す蛇口に手を伸ばしたままの私を置いてユウコは先にトイレを出ていった。
 一瞬開いた重い扉は向こうに広がるざわめきをほんの少しだけ私に届けた。



 日曜日。
 一昨日のコンパで知り合った男のドライブに行かないかというユウコの誘いをどうにか断って、近所のスーパーで買い物をした昼下がりの帰り道。
 季節外れの陽気に汗ばんだ体をシャワーで流そうと、両手に袋をぶら下げてエレベータから早足で下りた私は出合い頭に人にぶつかった。
 「ごめんなさい、大丈夫ですか」
 「大丈夫じゃないよ、いきなり」
 コンクリの床に持っていたスーパーの袋がバサッと落ちる音が響く。
 私は立ち尽くしていた。
 ぶつかった相手はわざとらしく「お詫びに髪、洗ってくれないかな」と言っている。我慢と絶望を何の根拠もない自信だけで支えてきたダムはたった今決壊した。
 「一年も海外研修で埃が溜まって───」
 パアンッという音が最後まで台詞を言わせなかった。
 私の右手は派手にヒロキの頬を張っていた。
 強気でならした私の目からはポロポロと涙が落ちていた。
 「ご、ごめん、ちょっと驚かせようと───」
 今度も台詞は最後まで聞こえなかった。感極まった私の左手がヒロキの頬を再び張ったのだ。
 「ちゃんと、」
 私はどうにかいつもの私を取り戻すべくしっかりと足を踏ん張り、お腹に力を入れた。
 「ちゃんと持ってんでしょうね、これっ」
 私はケータイを取り出した。ケータイにはあの貝殻がキーホルダー代わりに穴を開けられてぶら下がっていた。
 「───持ってるよ」
 ぶっきらぼうにヒロキは答えた。
 それだけで私は十分だった。
 ヒロキから出てくる台詞はどうでもよかった。
 あの女の人は会社の先輩だと言う説明も、理由も言わずに出ていったのは一年も海外で研修だと言い出せずじまいだったことも、その一年で一旦すべてを断って男として成長したかったというカッコをつけた台詞も。
 「大体、」私は泣き笑いで声を絞り出した。
 「どこに洗う髪なんてあんのよ」
 ヒロキは出て行った時からは想像もつかない坊主頭になっていた。
 「あるよ、少しは」
 「坊主だったらすぐに終わるでしょ、自分で洗ったら。それに」
 私は最後の問いを口にした。
 「私が別の男と付き合っていたらどうするのよ」
 ピクリ、とヒロキの眉が動いて一瞬目を伏せた。
 けれどすぐにぐいと手首を掴まれて引き寄せられる。
 あの懐かしい両腕の感覚が私の体を包む。
 相変わらず力加減を知らずに私の骨をきしませるような抱き方。
 「それを覚悟で言わせてくれ」
 無言の私。
 「一年もすまなかった」
 ゆっくりとヒロキは言葉を続けた。
 「もし今誰とも付き合っていないのなら、俺の髪をまた洗ってくれないか。俺もマミだけの髪を洗うから」
 「洗う間の、マミに触れられてるあの感覚が忘れられないんだ」
 ヒロキは吐き出すように言ったあと、私の言葉を待つように沈黙した。
 けれど私の言葉が中々出ないことに不安に思ったのかおそるおそる言葉をつないだ。
 「勿論シャンプーだけじゃない、マミのことが忘れられなかったんだ」
 「バカ」
 「バカって何だよ」
 「先にそれを言うもんでしょ」
 「そうだな」
 ようやくヒロキは私を解き放した。
 「マミの髪を洗い続けるよ」
 「またふらっと出ていくんじゃないの」
 「─────誓うよ、一生マミのそばにいる」



 たとえ外の世界が欺瞞に満ちていたとしても、身を委ねることができる安心感は何よりも心を落ち着かせる。
 そう、ヒロキとならば───────。


<了>

 
あとがきへ
 
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