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 僕は腐りかけていた。
 長い間この鬱蒼とした木々の間で、日がな一日鳥のさえずりを聞いているだけの毎日。たまに話す七十過ぎの爺さんは同じことばかり繰り返すし、三十三の女は現れるといつも付き合っていた男の愚痴ばかりで、どうやって復讐するかを僕に相談するのだ。


シュウネン




 いい加減飽きた僕はその場を離れたいのだが、体の調子のいい時しか僕は歩き回れない。
 久々に会った爺さんの「飛行機はワシが開発した」という何十回も聞いた話が一段落したその時、女が横から口を挟んだ。
 「それよりもさ、聞いてよ。あいつ、私の健康保険証でいくら借金してたと思う?」
 僕は天を見上げた。その話も爺さんに負けず何十回も聞いたはずだ。
 今日は久しぶりの晴天になり、七月の半ばにしては朝からそよぐ風が心地よい。
 「─────でね、ウチに取り立てが来るわけよ。そりゃあひどいんだから」
 横では爺さんがフォッフォッフォッと咳とも笑いともつかない声を上げている。
 いつもの三人。
 いつもの風景。
 いつまで続くのだろう、この毎日。
 浮かび上がりそうで浮かび上がれそうにないこの気持ち。
 不思議なことに僕はこの二人のことを全然知らなかった。どういういきさつでここに来ているのか、どういう家族構成なのか。
 でもそんなことは知らなくても、顔を合わせるとうんざりしながらも何故だかほっとする仲間意識のような感覚が僕の中に湧き出てくるのだった。
 「でもね、結局私はアイツを憎みきれないのよね」
 話の終わりはいつも同じ台詞で締める、姐さんと僕が呼んでいる女は、少しだけ悲しいような寂しそうな何とも言えない顔をした。
 「姐さん、その彼氏の男は迎えに来ないの?」
 「あはは」
 姐さんは僕の肩をぱしんと叩いて言う。
 「やあだ、来るわけないじゃない。もう別れて何年経つと思ってんのよ」
 「そっか」
 「あんたみたいに純真なオトコノコ、彼氏にしたら良かったかしら?」
 僕の頬が赤くなるのを見越してそんな風にからかう姐さん。
 「爺さんは?」
 僕は隣の白髪混じりの眉毛をのぞきこんだ。気を抜くと寝ているのか起きているのか分からないほど爺さんの眉毛は長い。
 「んん?」
 「また居眠りしてたの?」
 「んや起きとる起きとる」
 そういう口が回っていない。
 「ワシにゃあもう身寄りはおらん」
 「子供さんやお孫さんがいるでしょ」
 「あやつらワシをホームに入れたら一件落着じゃ」
 「.....そう」
 結局、何となくほっとするのは、こうやってどこか寂しい気持ちを抱えた者同士だからなのだ。深くお互いを詮索せずとも、みな自分に似た影を持っているからこそ、ここでこうして何とはなしに世間話をして過ごすのだ。
 と、突然向こうから人の話し声が近付いてきた。
 それに気付くや二人とも急にそちらを険しい顔で見つめる。
 少し押し殺したように話をしている家族連れは、荷物を置くと、周囲の掃除を始めた。
 「違ったわ」
 その姿を確認すると、姐さんは誰に言うでもなく呟いた。
 爺さんも元の柔和な顔に戻り、フォッフォッフォッと笑った。
 家族連れは掃除が終わるとそそくさと手を合わせて帰って行った。そこには生きる者の温もりと力強さだけが残り、形だけの尊敬と崇拝は僕らの気持ちをまた沈ませた。
 完全に家族連れの姿が消えたのを確認して、ふあああ、とわざとらしい大きな欠伸を姐さんはして、ほんといいお天気ねえ、と続けた。
 「お爺ちゃんは?」
 「ワシはもう二十年になろうか」
 「私は六年だわ」
 こうやって年数を確認するたび、僕は少し肩身が狭い。
 「あんたも私達みたいに長居しちゃ駄目よ」
 そう言われても僕にはどうしようもできないことを二人は知っている。
 僕は少し憂鬱になった。
 独りになりたくて二人の側を離れ、奥の大きな桜の木の根元で腰を下ろした。瞳を閉じればこの一年が頭をめぐる。ずっと僕の心に引っ掛かったままの棘はこのまま永遠に僕をチクチクと刺し続けるのだろうか。
 言いたかったことも言えず、伝えたかったことも伝えられず、こうして地に心の先を結び付けられたまま空を見上げるだけなのか。
 こうやって背を預けている、葉桜の大木は一体何人の心を眺め続けてきたのだろう。
 吸い込まれそうな夏の青い空─────。
 「ちょっと起きなさいよ、ちょっと」
 僕は肩を揺すられて起こされた。わずかな間に居眠りをしたようだ。
 姐さんの顔が強張っている。
 「ほら早く、早く!」
 僕は姐さんに引っ張られるように起こされた。
 「あの子、違う?」
 先ほどまで家族連れが来ていた場所に、一人の女性が膝をつき、手を合わせていた。
 体が震えるような感覚に包まれた後、駆け出しそうになった。
 しかし、行けない。
 僕は行けない。
 そんな僕の背中を姐さんは優しく押し出した。
 「ほら、行って声をかけといで」
 言われるまま僕はゆっくりと女性の背後に近付いた。
 女性は、いや、忘れるはずもない僕の愛しい彼女、夏希は静かに手を合わせて何事かを呟いていた。
 聞き取りにくい低い声は涙を押し殺しているのか、ごめんね、と何回も繰り返しているようだった。
 それを聞いた僕の体はいつになく軽くなった気がした。
 夏希がごめんね、と呟くたびにふわり、ふわりと足元が覚束なくなってゆく。
 ふわりと浮き上がる体に抗ってどうにか夏希の肩に手を置こうとするのだが、さっきまで鉛を飲み込んだように重かった僕の体は首根っこを中心に徐々に空に引っ張られてゆくのだ。
 「夏希」
 僕はやっとの思いで夏希の肩に手を乗せた。
 「一年も─────」
 夏希は僕の手にも気付かずに話していた。
 「一年も来れなくてごめんね」
 いいんだ、分かってるよ、夏希。
 「私本当に信じられなくて」
 それは僕もなんだよ。夏希との待ち合わせの場所に向かう途中で事故に遇うなんて。
 僕も未だに信じられないんだよ。
 だからここで、このお寺の裏山で、想いが叶うまで縛り付けられていたんだ。
 夏希に逢いたいという僕の想い──────。
 君も苦しかったんだろう。一年間悲しませたんだね。
 そう、今日は僕の命日。
 僕の体はとうとう墓石よりも上に浮かび上がってしまっていた。
 僕がここに残した想いが叶ったから、成仏しようとしているんだ。
 姐さんと爺さんが立ち上がって手を振っている。
 良かったね。
 二人はそう言って手を振っていた。
 姐さんや爺さんはもしかしたらずっとあの場所に縛り付けられてしまうかもしれないのに。
 それなのに本当に笑顔で僕を見送ってくれていた。
 長い間ここにいる姐さんや爺さんをさし置いて、たった一年前に後から来た僕が先に上がってしまって申し訳ない気持ちで一杯だった。
 「気にしないで上がりな!」
 姐さんが叫んだ。
 爺さんはいつもの笑顔でフォッフォッフォッと笑っている。
 「一年間、憂鬱で楽しくて、話は何度も聞いたけど面白かったよ!」
 僕は上から二人に叫ぶ。
 しかし本当の別れが近付いているのが自分でも分かる。
 上に上がるスピードが徐々に増してゆく。
 「姐さん!」
 「爺さん!」
 叫びは声にならない。
 二人は泣きながらぎこちない、けれど精一杯の笑顔を返してくれた。
 「さよなら!」
 そして。
 「夏希!」
 僕は上昇しながらあらん限りの声を上げた。例え夏希に聞こえなくても。
 こらえていた涙が僕の目からぽたぽたと落ちてゆく。
 雫がきらきらと光りながら落ちてゆく。
 墓石や夏希の目の前の線香のそばに数滴落ちる。
 それを見るや、聞こえるはずのない僕の声が聞こえたのか、夏希はすっくと立ち上がり、そして見えるはずのない中空の僕をしっかりと見つめた。


 夏希と見つめあう、ほんの瞬間。
 僕はそれだけで幸せだった。

<了>

 
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